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映画『セッション』について

セッション。見てきました。

鑑賞前から既に町山智治氏と菊池成孔氏がネット上において論戦を交わしていたが、二人のブログは見ないようにし前情報は劇場で流れる予告編だけという状態で映画館へ。

結果で言うと自分はこの映画を諸手を挙げて賞賛はできないという立場だ。

町山氏と菊池氏のブログも鑑賞後すぐに読んだが、争点のひとつはやはり結論の解釈の違いだろう。町山氏はあのラストは師弟関係も地位も名誉もなにもかもなくなり純粋な音楽グルーブによってハッピーになるというような解釈を示していたが私はそうは思わなかった。

むしろあの二人は観客もバンドのメンバーも全て無視して二人だけの世界に入っていくというハッピーというよりはむしろ狂気に近い領域に至っているのである。それは音楽によってもたらされる純粋な喜びなんかでは当然なく、師匠の異常な指導とそれを受け入れてしまった弟子が作りだしたいびつな世界でしかないのである。

宇多丸氏がムービーウォッチで言及していたようにあれは正にスターウォーズのルークのような病み墜ちなのである。主人公の父がドアから息子のステージを引きつった顔で眺めているシーンが象徴しているように、あのシーンは主人公が師匠という悪魔と取引をしてしまった瞬間なのである。

そうなると結局主人公はあれだけ嫌っていた師匠の指導スタイルを受け入れてしまったことになり、私としてはあのラストにカタルシス感じる事は出来なかった。それでいいのか!?と思わず疑問に思ってしまったのである。

別にこの映画はそうした指導を擁護している訳でもないだろうからこの映画は闇墜ちENDもの(そんな言葉があるかはわからない)ということで自分的には決着をつけることにした。

そうだとすれば菊池氏の言い分も納得が出来る。氏はブログ内でこの映画を「駄菓子映画」と評していたが、それは観客が思わず興奮せざる終えない師匠の刺激的な暴力シーンの末に結局闇墜ちEND至るという脚本故であろう。あれだけの暴力シーンを見れば不謹慎なことだが観客は思わずおもしろいと思ってしまうし、それを結局解決せずに闇に墜ちていく主人公もなんかエヴァみたいでカッコイイ的な落としどころなので脚本に誠意が感じられない。端的に興奮できておもしろいと思わせてくるこの脚本が「駄菓子映画」と評されるのには妙に納得してしまう。

とは言いつつも私自身もそうした刺激的なシーンに興奮してしまったし、ビッグバンドの演奏シーンにもなんだかスゲーとか思ってしまったのである。映画に関しては門外漢にも等しいのでこれ以上だらだら書き連ねるのはやめるが、なんとも複雑な気持ちになってしまう映画だった。町山氏と菊池氏の両者の対決によって映画を見たくなったのは間違いない。むしろ二人の論争こそ最も「駄菓子的」効果があるのではないだろうか。

それにしてもスキンヘッドの指導者って何であんなに怖い人多いんだろう…(完全なる偏見)

 

 

 

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